前回はデカルトの方法的懐疑とは何かについて解説しました。

今回は、方法的懐疑という手法でデカルトがどのような過程を経て、超有名な名言「我思う、ゆえに我在り」にたどり着いたのかを見ていきましょう。

私たちが確かだと思っていることを疑うと何が残るか?

デカルトは、私たちが確かだと思ってきたものを疑うことから始めました。

その中から疑うことができないものを探そうとしたのです。

本当に確かなことであれば、疑うことができないからです。

私たちは生まれてから、学校で勉強したことや、テレビで見たこと、本で読んだりしたことを本当だと思って成長してきました。

見たり、聞いたりしたこと、つまりは五感を通じて感じ取ったことを確かだと思っています。

しかし本当にそうでしょうか?

デカルトは著書である「省察」の中で次のように書いています。

私は人間である。夜には眠り、夢のなかで、目覚めているときに経験するのと同じことをすべて経験する。実際には眠っているのに、いつものように、自分がここにいるとか、上着を着ているとか、炉ばたに座っているとか信じることがしばしば起こる。しかも、注意深く考えると、覚醒と睡眠を区別できるような、確かな印などまったくないのだ。

デカルト「省察」

現実だと思ったら夢だった。

夢だと思って目覚めたら、それもまた夢だった。

こんな経験をしたことはないでしょうか?

食事をしていても、本を読んでいても、誰かとおしゃべりしていても、もしかしたら、夢を見ているだけかもしれません。

「これは夢かも?」と思って、ほっぺたをつねったとしても、「ほっぺたをつねって痛い」という夢を見ているだけかもしれません。

そこで、デカルトはすべては夢だと考えることにしました。

感覚によって私たちの中に入ってくるものは、本物ではなく、すべては夢にすぎないとして、それらの感覚を無視します。

外的な感覚として目に入るものすべて(机、いす、本、食べ物 etc)は本物ではない、つまり自分の外に広がる世界は実は存在しないと考えます。

そして内的な感覚(お腹がすいた、喉が渇いた、頭が痛い etc)も夢に過ぎないと考えます。

感覚を無視するとはどういうことかというと、体を切り離すということです。

五感がなくなるということです。

極端な話ですが、あくまで確実なものを探すための思考実験です。

体を切り離すと、何が残るか?

精神が残ります。簡単に言うと、夢を見ている状態です。

では、夢を見ているとして、それでも確かなもの(疑えないもの)は残るでしょうか?

例えば数学の問題です。数学の問題を解くには体は必要ありません。

1+1=2 という数学的な確かさは、感覚によってとらえるものではないので、夢を見ていても、目覚めていても、確かなはずです。

しかしデカルトはさらに疑うことを徹底します。

「いや、もしかすると、神様が夢の中で1+1=2という間違った答えを出すように仕向けているかもしれない」

そう考えれば、数学的な真理も正しいとは言えなくなります。

もう、頭おかしいほど疑いまくりです。

もはや何が正しいのかさっぱりわからない状態です。

しかし、ここでデカルトは気付きます。

・ほっぺたをつねって痛い→夢だろうと疑う
・お腹が減った→夢だろうと疑う
・喉が渇いた→夢だろうと疑う
・数学の問題を解く→神が間違わせていると疑う

すべてのことは疑えるけれども、こうして現に疑っているという私自身は確かにある!

疑っている限りにおいて私は存在している!

デカルトはこうして「我思う、ゆえに我在り」にたどり着いたのです。

デカルトは、自分の外に広がる世界を考える前に、世界を認識している自分自身について思考を深めました。

デカルトの偉大さは「客観=世界のこと」よりも「主観=自分のこと」に焦点を当てたことです。

次回は「神の存在証明」について書いていきます。