前回はデカルトの「神の存在証明」の思考プロセスをたどりました。

今回は、デカルトの心身二元論についてわかりやすく解説していきます。

二元論はデカルトがはじまりというわけではなく、そのルーツは古代ギリシアのプラトンにまでたどることができます。

1.デカルトの心身二元論とはどんな考え方なのか?
2.プラトンの二元論と何が違うのか?
3.デカルトの心身二元論への批判について

上記3点について解説していきます。

1.デカルトの心身二元論とはどんな考え方なのか?

心身二元論とは、文字通り、心(精神)と身体(物体)は別の実体であるという考え方です。

デカルトはどうしてこのように考えたのでしょうか?

デカルトの超有名な名言「我思う、故に我在り」にたどり着いた思考プロセスを少し復習してみましょう。

デカルトは確かなものを探すために、すべてを疑くことから始めました。

もし、疑えないものがあるとするなら、それこそ確かだからです。

デカルトはすべてを疑い、どんなに疑っても、すべては幻だとしても、疑っている限りにおいて「私」は存在しているという考えにたどり着きました。

そこからデカルトは考えます。

「私」が存在することは確かだとわかった。

では、この世界にある物体とはいったい何だろうかと考えます。

本であったり、机であったり、家であったり、今まで幻だと考えていた物体について考えてみようとしたのです。

そのために、デカルトは「懐疑」の手綱を緩めます。

これまで徹底的にすべてを疑ってきましたが、その疑いのレベルを下げたということです。

デカルトはある物体の例を出します。

それはあまり身近な存在ではない「蜜蝋」です。

蜜蝋とは、もちろん蜂蜜で作ったろうそくのことです。

蜜蝋を火であぶるとどうなるでしょうか?

溶けだします。形が変わります。

最終的に全て溶けてなくなったように見えます。

でも、本当になくなったのでしょうか?

私たちは、蜜蝋が消えたなくなったとは思いませんよね。

確かに形は変わったかもしれないけど、私たちの感覚が捉えた蜜蝋は、確かに蜜蝋であるはずです。

この事例から、デカルトは、この世界に存在している物体の本当の姿は、感覚によってとらえた形、色、匂いなどではないと言います。

デカルトは物体の本質は延長だと言うのです。

延長とは、「空間に何らかの形をとって広かること」という意味です。

温度が低ければ、蜜蝋は固体として存在しますが、火であぶると溶けて液体になります。

でも、蜜蝋は蜜蝋。空間にどんな広がり方をしているかは違うけど、物体とは、この空間に何らかの広がりを持つことを特徴とするものだとデカルトは考えます。

こうしてデカルトは、この世界に存在する2つの根源的なものを定義します。

1つは精神。精神(心)は考えるという特徴を持つものである。

もう1つは物体。物体(身)は空間に何らかの広がりを持つものである。

ここで重要なのは物体は精神とは独立しているということです。

普通、私たちは物体(本とかリンゴとか椅子とか)を感覚的に捉えています。

目で見て、触って、「ああ、これは本だよね」と。

しかし、デカルトは「それは違う」と言うわけです。

物体とは、この空間に何らかの形をとって広がることだと。

広がり方を限定すると形が決まってくるのです。

デカルトは物質の在り方と、精神の在り方は、それぞれ違うから、それぞれに応じて世界を捉えようとします。

これが心身二元論です。

精神は考えることを特徴とし、物質は空間に広がることを特徴とする、というわけです。

考えることは身体を必要としませんから(例えば筋トレしながらでも考えることは出来る)、デカルトにとって身体は物質です。

身体は空間に広がりを持ちますが、思考は空間に広がりを持たないということができるでしょう。

まとめると、デカルトは、「身体」の本質は「延長」であり、「精神」の本質は「延長」を持たない「思考」であると考えたのです。

このようにデカルトは精神と身体を異なる実体とみなしたということです。

ここまではデカルトの心身二元論の話です。

しかし、このような二元論はデカルトの専売特許ではなく、古代ギリシアにおいて、すでにそのような考え方をした人物がいます。

それがプラトンです。

を他に還元できない全く異なる「実体」とみなす。

2.プラトンの二元論と何が違うのか?

プラトンといえば、イデア論ですよね。

イデア論についてはこちらの記事で、わかりやすく解説しています。

イデアとは、物事の本質のことでした。真の実在です。

プラトンはすべてのものは「イデアの世界」と「感覚で捉える世界」という二元論で構成されていると考えたのです。

イデアの世界が、普遍の世界であり、眼や耳などの感覚で捉える世界は仮の実在とします。

言い換えると、イデアの世界は「魂(精神)」の世界です。

プラトンは、魂は普遍であり、身体は魂を閉じ込める牢獄であると考えました。

だからプラトンにとって、死とは、身体という牢獄からの解放なのです。

解放された魂は輪廻すると考えます。

プラトンはこのように魂(精神)と肉体を異なる実体として捉えていました。

これがプラトンの霊肉二元論です。

プラトンの二元論と、デカルトの二元論は何が違うか?

プラトンは「イデア」はイデア界(現世ではない世界)にあり、肉体は現世にある、つまり天界、地上界の二元論です。

一方、デカルトの二元論は精神と身体がともに現世(地上界)にある並列的な二元論です。

この点で、デカルトの二元論とプラトンの二元論は異なっています。

3.デカルトの心身二元論への批判について

デカルトの考えは、古代ギリシア哲学と比べてみると、まったく異質な考え方をしていることに触れておきます。

古代ギリシア哲学では、「世界とはどうなっているか」を考えることが哲学の中心でした。

「万物の根源は水である」といったタレスにはじまり、「万物の根源はアトム(原子)である」といったデモクリトスまで、古代ギリシアの哲学者たちは、世界は何でできているのかを考えていました。

(それを転換したのがソクラテスです)

しかしデカルトは、「人間の感覚など信用できない」と考え、まず人間が世界を正しく認識できているかどうかを疑うことから哲学をスタートしました。

もし人間が世界を正しく認識できていないとすれば、世界は存在しないかもしれないじゃないですか!

ギリシアの哲学者が世界の存在を前提としていたのに対し、デカルトは、世界の存在を前提としませんでした。

難しく言うと、デカルトは「客観」よりも「主観」に重きを置いたのです。

デカルトは方法的懐疑により、「我思う、故に我在り」にたどりつき、主観の存在は確かなものとしました。

そこから、この確かな自分は世界を正しく認識できているのかに思考を進めていったのです。

さて、デカルトの心身二元論には批判があります。

精神と身体の関係についてです。

非物理的な存在である精神と物理的な存在である身体はどのように関係しているのでしょうか?

ちょっとイメージしてみてください。

私たちは「あー、眠い」と考えたとき(精神)、伸びをしたり、冷たい水で顔を洗ったり(身体)します。

精神が原因となって行動(身体)が起こっているように見えますよね。

「あー、なんか煮詰まったな」と考えたとき(精神)、窓をあけて空気の入れ替えをしたり(身体)します。

精神が原因となって行動(身体)が起こっているように見えますよね。

精神と身体という別個の実体がどのように関係しているのでしょうか?

精神と身体は本質が異なるものと、デカルトは言ったのに、この関連をどう説明したらいいのでしょうか?

物体同士であれば、例えばボウリングの球を投げて、ピンが倒れたというときには、物理学の法則によって因果関係が説明できそうですよね。

でも、本質の異なる精神と身体では?

デカルトの心身二元論は、このように心と身体の因果関係の説明について大きな問題を抱えているのです。

ちなみに、デカルトは次のように説明しました。

デカルトが持ち出したのは、脳の中にある松果腺という器官です。

外的な刺激(眠い、だるい)は神経を伝達して松果腺の中にある動物精気という物質を刺激して、精神に様々な感覚を生じさせます。

様々な感覚とは「驚き」や「愛」や「悲しみ」「憎しみ」などの情念です。

これらの情念が心臓や肝臓、胃、脾臓、筋肉に送り込まれ身体の運動を引き起こすそうです。

・・・わかました?

何となくわかるような、わからないような・・・。

内容は理解できなくても、かなり強引な感じはしますよね。

このように、精神と身体を全く違う性質のものとしたのはいいのですが、「じゃあ、その関係は?」というところが、デカルトの心身二元論が批判を浴びたポイントです。

以上、デカルトの心身二元論についての解説でした。

デカルトの思想・哲学まとめ