前回はデカルトが「我思う、故に我在り」にたどり着いた過程を解説しました。

今回はデカルトが行った「神の存在証明」について解説します。

デカルトは著書「省察」の中で「疑う」ということから始めました。

しかしなぜ疑うのでしょうか?

その理由は私たちが全知全能ではないからです。

全知全能であれば何を疑う必要もありません。

何でも完璧に知っているわけですから。

もし疑うということが成立しているなら、私たちは全知全能ではないということになります。

全知全能ではないということは、言い換えると、「限り」があるということです。つまり有限です。

となると、「疑う私=有限な存在」ということが導かれます。

ここからさらに思考を進めます。

なぜ私が有限な存在だとわかるのか?

それは私が生まれつき「無限」を知っているから、有限が理解できるのだ。

無限なものとは何か?それは神しかいません。

さらにデカルトは言います。私たちが観念として理解しているものは存在していると。

つまり無限を理解しているということは、「無限なもの=神」は存在しているということです。

これが、デカルトの神の存在証明のプロセスです。

これを第3省察で明らかにしました。

デカルトの神の存在証明に思うこと

「我思う、故に我在り」までのデカルトの思考の流れは完璧だと思います。

しかし、神の存在証明についてはどうでしょうか?

素人がデカルトの神の存在証明の思考のプロセスを見ても、「ん?」ってなりませんか?

・生まれつき無限を理解しているとか。
・観念として理解したものは存在するとか。

かなり強引な感じがしますよね。

ユニコーンを観念としてイメージ・理解したからといって、ユニコーンが存在するわけではありません。

生まれつき無限を理解しているとか、科学者でもあったデカルトの言うことではないでしょう。

なぜデカルトはこのように強引に神の存在証明を行ったのでしょうか。

それは、デカルトが生きた時代の背景を考えると見えてきます。

デカルトが生きた17世紀は、14世紀からのルネサンスを経て、自然科学が勃興し、キリスト教会の権威が揺らいでいた時代です。

物質文明が栄えて「カネ」「モノ」への執着が高まり、人間の精神が堕落が見られたのでしょう。

デカルトはそんな世界に危機感を覚え、神への信仰を取り戻そうとしたのかもしれません。

それも教会に頼るのではなく、論理的に神の存在を明らかにすることによって成し遂げようとしたのでしょう。

ただ、普通に考えて、やっぱり強引です。

もっと納得できる神の存在証明

神の存在証明であれば、13世紀のキリスト教神学者トマス・アクィナスのほうが納得できる気がします。

トマス・アクィナスは中世ヨーロッパ最大の神学者で「神学大全」を著した人物です。

彼が生きた時代も神がピンチに陥っていました。

十字軍により、ヨーロッパ世界に古代ギリシア哲学の知見がもたらされます。

それが困ったことを引き起こします。

アリストテレスの哲学を突き詰めていくと、キリスト教の教義にとって不都合なことがたくさん出てきたのです。

アリストテレスといえば、徹底した論理主義者ですから、その哲学の前では、三位一体説とか粉砕されてしまうわけです。

三位一体説なんて、どう考えても論理的ではないですからね。

神の存在が疑われはじめた時代の始まりです。

神学VS哲学の戦いは、哲学に軍配が上がりそうでした。

しかしそれを防ぎ、神学を哲学の上位に置こうとしたのがトマス・アクィナスです。

トマス・アクィナスは哲学の「論理」を逆手に取りました。

アリストテレスの論理を援用して5つの方法で神の存在を証明しました。

その中で最もわかりやすいのが「始動因による証明」です。

ものの変化には必ず原因があります。

ここに家が建っているのは、大工さんが建てたからで、大工さんが家を建てるためには、木材を加工した人がいて、木材を加工するためには、木を切る人がいて・・・

このように論理的に考えて、ものごとには必ず原因がある。

では、最初の原因とは何か?

宇宙はなぜ存在しているのか?

宇宙を作った原因は何か?

こう問われると、今ならビッグバンと答えるところですが、では「ビッグバンの原因は?」と問われると・・・答えられませんね。

こうして、トマス・アクィナスは論理的に神の存在を証明したのです。

デカルトの神の存在証明より、トマス・アクィナスのほうが納得できる気がしませんか?

最後は話がそれましたが、デカルトの神の存在証明のプロセスについて
でした。

次はデカルトの二元論について書いていきます。